【ラグビー部OB】追悼 平尾誠二さん
10月20日に逝去されましたラグビー部OBの平尾誠二さんを偲んで、沖田 行司ラグビー部長、村口 和夫ラグビー部OB・OG会長、同期の圓井 良氏(1985工卒)からご寄稿をいただきました。
同志社ラグビーに輝かしい歴史をもたらし、日本ラグビー界を牽引された平尾誠二さんのあまりにも早すぎるご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
平尾誠二さん、さようなら
平尾誠二さんのご逝去を悼み、心から追悼の意を表します。
私はそれほど深い親交があったわけではありませんが、ラグビー部の部長に就任してから、幾度か田辺のグラウンドに来ていただいてラグビー部員を激励していただきました。昨年の5月ごろに食事をする約束をしていたのですが、7月に延期になり、やがて体調がよくないので回復してからということになり、会食の話は立ち消えになりました。
3年ほど前に会食したとき、30代、40代は忙しくて同志社大学を振り返る余裕がなかったが、これからは母校に貢献したいと熱く語っていたことが昨日のように思い出されます。昨年の10月にBS11で放送された『新島襄―その心』の監修者を仰せつかった時、最初に平尾さんに出演を依頼しましたところ快く引き受けていただき、15分にわたってラグビー人生のこと、同志社大学のこと、岡仁詩先生のこと、さらにはリーダー論についても語っていただきました。
昨日、DVDを取り出して、表紙カバーに登場している、少しやせた平尾さんの笑い顔を眺め、内容を巻き戻して2回見ました。あの人懐っこい笑い顔がなんとも言えず魅力的でした。自分を誇ることもなく、常に謙虚でしかも強い意志を持った男、平尾誠二さん、さようなら。
体育会長・ラグビー部長 沖田行司(社会学部教授)
平尾誠二さんを偲んで
平尾君の訃報を聞き、早すぎるノーサイドに衝撃をうけております。
彼の経歴は皆さまご存じのとおり、伏見工で全国大会、優勝、我同志社大では大学選手権3連覇、神戸製鋼で日本選手権7連覇、その間全日本代表としてワールドカップ3回出場し全日本監督としても活躍され、引退後は神戸製鋼の総監督も務めました。
新しい発想で日本ラグビー界に多大な貢献をされました。
彼が同志社を卒業後31年間、同志社ラグビー部が大学選手権優勝から遠ざかっている事実にその存在の大きさを今更のように感じます。
平尾君との思い出は、彼が4年の時私が新日鉄釜石ラグビーを引退して本社に在席の際、釜石ラグビーより彼のスカウトを依頼され食事をしたことがありましたが彼は神戸製鋼を選び、林、大八木君等と神戸製鋼の黄金時代を築くことになりました。
彼が釜石を選択していたら釜石の連覇も続いたかもしれないとふと思ってみたり、感慨深いものがあります。
早すぎるご逝去が残念でなりません。
心よりのご冥福をお祈り申し上げます。
同志社ラグビークラブ
1972卒
会長 村口和夫
平 尾
訃報を聞いた1週間経った今でも、心底信じることができない毎日を過ごしている。大学卒業後はラグビー場や数年おきに開催された同期会で会い談笑する仲だったので、また次に会うことを楽しみにしている心が解けない。
同志社では同期のチームメイトでありながら、常に平尾に認められたいという願望があった。選手権に挑む際も特にミーティングも無く、試合は平尾に任せておけば間違いない。自分は目の前の敵を倒し、少しでも前に出ていい球を平尾に供給すれば、平尾に任せておけばトライをとってくれるのが当たり前のような感覚だった。ゲームプランは?などと聞こうものなら、「任せとけ!」の一言で一蹴されたものだ。
平尾は何に対しても目的意識が高く、周囲に左右されることなく新しい道を切り開いていってくれた。「真理は寒梅のごとし、敢えて風雪を侵して開く」その考え方や風貌は、校祖新島襄と被って見えた。
昨年5月「卒業30周年やから同期会やろう」と平尾が言い出し、学生時代、同期でよく集まっていた岩倉の居酒屋で同期会が開催された。当然のごとく2次会も全員でながれ、学生時代に戻った気分で大いに盛り上がったことが記憶に新しい。天国に行っても同期の中心であることは永遠に変わらない。これからもずっと同期の主役やぞ。
圓井 良
〔1985工学部卒・圓井繊維機械(株)代表取締役〕