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2018年1月12日

【ラグビー部】追悼 伊藤武元監督

1981年大学選手権直後のインタビューで

9月20日、71歳で逝去された伊藤 武元監督を偲び、OBの南 昌樹氏(1983年卒)が追悼文を執筆してくださいました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

同志社高校、大学と7年間、指導を受け大変お世話になった学年を代表して追悼文を書かせていただきます。
高校を指導していただいた5年、全国大会へは残念ながら出場できませんでしたが、春季京都大会優勝2回、近畿大会準優勝、国体3位など、全国レベルのチームに育てていただきました。
伊藤監督は、1980年から同志社大学の監督をされることになりました。
当時、大学ラグビーは、早稲田、明治の時代でした。
関西では敵なしでしたが、関東のチームには、歯が立たず、打倒関東が、目標という状況でした。
監督1年目から、同志社旋風を巻き起こし筑波大、早稲田大を倒し決勝進出しました。
決勝は、大型FWの明治大学でした。
悪天候の中3-3で後半中盤に決定的なチャンスがありましたが、ジャージが泥だらけで、敵味方の区別がつかず、ラストパスが通りませんでした。
その後も押し気味でしたが、終盤に反則をおかしPKで3-6で敗れ惜しくも準優勝でした。
その翌年は、関西リーグを、危なげない戦いで優勝し、大学選手権では、日体大、法政を破り決勝は、またも明治大でした。
この試合は、前半から激しいFW戦となりました。
見た目は、互角でしたが、密集で倒れてるのは明治ばかりでした。
日頃の激しいコンタクト練習のおかげで、当り負けしていませんでした。
後半、その差は徐々に広がり、激戦の末、11-6で初優勝を成し遂げました。
明治より小型なFWでしたが、ドライビングモールで押し込み、手薄になったモールサイドをFWが突破したあと見事なパスでつなぎました。
当時は、スクラムだけ組んでればいいと言われていたフロントローの選手がBK並のパスワークを見せつけました。
全員が、自由自在にボールを動かす面白いラグビーを披露し、全国に、多くの同志社ラグビーのファンを作った試合でした。
基本プレーを徹底して教えていただきましたが、ゲームでは、選手が自由な発想で考え、状況を判断しプレーを選択できるように指導されました。
何をするのかわからない、見ていて面白いラグビーを伊藤監督と当時の指導陣の方でつくられました。
その2年後から3連覇となりますが、主力選手たちは、伊藤監督が指導したおもしろいラグビーに憧れて入学し偉業が達成されたのだと思います。
3連覇の後、同志社高校の監督を30年以上され、優秀な人材を育て同志社ラグビーに多大な貢献をされました。
小学生のラグビーを、目を細めて楽しげに見ておられてました。
あの小学生たちが、成長したら、高校も数年後、京都で優勝できるかもしれないな、と、そんな話を生前していました。
将来、必ずそんな日が来るように現在の指導陣もがんばっております。
そんなご報告ができる日を楽しみにしております。

1981年大学選手権直後のインタビューで
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日本選手権を控えて
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